人のせいにしようか?自分の責任としようか?どっちが得?
「あいつがあんなこと言うから~になった」
た」
「こうなったのはあいつのせいだ」
よく聞く言葉です。
私もサラリーマン時代には、しょっちゅう言ったり思ったりしていました。
人は、ついつい自分の失敗を他人のせいにしたがるものです。
たしかにそのことで心が軽くなるときもあるでしょう。
ですが、このような他人のせいにする行為はあなたを更に貶めてしまう可能性を含んでいます。
「こうなったのは、親のせいであって、俺の責任じゃない」
「今のこの悪い状態に至ったのは、あの人の責任だ。自分は悪くない」
「俺が破産したのは、あいつが投資話を持ち込んできたせいだ」
言いたい気持ちは、痛いほどよくわかります。
私などかつてはあなたの何倍も言っていた言葉かもしれません。
でも、たとえそうだとしても、言われたとおりにやって失敗したにせよ、
失敗した時は他人のせいにするのではなく、
「自分の努力不足のせいだ」
と考えるほうが結果的にはいい方向にいくのです。
このように他人のせいにしていたら、反省などしないでしょう。
ですから、今後「どうしたら上手く出来るようになるか」「今後失敗しないためにはどうしたらよいか?」
そんなことを考えることもないでしょう。
そして、きっとその先その努力もしないだろうし、よって成長もしないのです。
そもそも人というのは、実際にある程度痛い目に遭わなければ、なかなかわからないことも多いのです。
そうではなく、もし「自分の責任」と認めることが出来たなら、「自分で何とかするしかない」「頑張ってみよう」
という、前向きなモチベーションが湧いてくるはずです。
同時に
「自分で責任をとる」という行為は、自分のことは自分でコントロール出来ているということなのです。
逆に他人をコントロールすることは、まず出来ません。自分の思い通りに他人を反省させるなんてことは出来ません。
ですから、いつまでも周りの人に左右される人生になってしまいます。
また「他人を妬む、恨む」ということに時間をとられることが増えていきます。
それって無駄な時間だと思うのです。
全てではないにせよ、周りに左右されない自分自身の人生を生きていきたいなら、出来るだけ他人のせいにせず、「自分の努力不足」であると考えてみましょう。
成功本や自己啓発書、成功者の共通点はただ1つ
こんな話があります。
あるところに1日30人の新規客が訪れるというレストランがありました。
何でそんなにお客さんを新規開拓できるのか、ある人が訪ねたところ
「私は、1日に30人のお客を集める方法は知りません」
「ですが、1日に1人のお客を集められるであろう方法を30個実行しているだけです。」と…
自己啓発本や成功本を何百冊も読んでみたり、成功者の共通点を並べてみて個人的に思ったことは
言っていることは
「とにかく行動しろ!!」
「とにかく思った行動は全部やれ」
これに帰結します。
もちろん思考がまったくムダとは言いませんが、とにかく行動した方が、ずっと状況はうまく進むのです。
これは始めた後も同じで、
「何年後にこうなっているので駄目なのでは?」
「こんなことが起こったらどうすればいいのだろう?」
ということを考えたり、また人に言われたりするものですが、
どんなに必死に考えて、研究しつくしたように思えても、実際に予想通りになることなんて、ほとんどありません。
どんな優秀な人のアドバイスといえども同じです。
もちろんそのように予想することや考えることがまったく無駄とは言いませんが、
とにかく行動した方が、ずっと状況はうまく進むのです。
たぶん何年か後には、その想像もつかない状況になっていることもあるはずですからね。
ただ確かに「一か八かの大勝負」のカッコイイですが、全く考えもなしに大量の予算をかけてしまうのは賢明ではないかもしれません。
個人的には、大きな勝負を1つ2つやるのではなく、小さな勝負、低予算の勝負をたくさんやることがいいのではと思ったりします。
それなら失敗しても痛手ではありません。投資で言う「分散投資」「リスクヘッジ」のような感じですかね。
そしてやってみて一つでもうまく行きそうなものが出てきたら、そこに予算や労力を再投入すればいいわけです。
それでも「もう若くないし、新たに行動を起こすなんて出来ないよ」という人もいるかもしれません。
でも敢えて言いますが、それでもやりたいと思ったことはやってみるべきです。
もしそれでもという方は、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースがKFCを起業したのは65歳だったということを思い出して下さいね。
決断しないこと自体が最悪の選択
イスラエルの心理学者、メラマードによれば、優柔不断な人ほど、不安を抱えやすい傾向があるそうです。
実際、迷えば迷うほど、大切な時間は過ぎ去っていきます。
精神科医であるシュピッツバートによれば、
大事なのは「決断の結果ではなく、決断すること自体である」と述べています。
考えてみれば、迷うということは、「どの選択肢にもほぼ同じ価値がある」とあなたが判断している証拠です。
それなら、些細な差を気にして時間をかけて悩むより、さっさと決断したほうがいいということがわかると思います。
それに、早く決断すればするほど、行動するための時間が生まれます。
たとえものすごくいい選択肢を選ぶことができたとしても、そのときにあなたがおじいさん・おばあさんになっていたら、意味がないのではないでしょうか。
またシュピッツバードは
「君がどんなに選択から逃げているつもりでも、実はそれは『選択を先延ばしにする』という、最悪の選択をしているに過ぎない。」とも述べています。
結局人は、選択から完全に逃れることなど不可能なのです。
ですから、
何かの決断で迷ったら、とにかく「結果」よりも「今決断することが大切」と考えること。
もしどうしても決断できないなら、コインやサイコロなどで決めてしまうほうが遥かに健全です。
さあ、今すぐ決断のサイコロを振ってみましょう!!
最愛の妻を亡くしたおじいさんへのフランクルの答え
人は誰しも、ときには、絶望にかられるときだってあることでしょう。
ましてや、強制収容所に収容された大半のユダヤ人はそれ以上に絶望の日々に明け暮れたことでしょう。
「ナチスの強制収容所に入れられ、いつガス室に送られるのか」という日々...
そんな日々に、どうやって幸せを見いだせというのか?
そんな過酷な日々を生き抜いたヴィクトール・フランクルの言葉には重みがあります。
そんなフランクルのエピソードの一つです。
ある日フランクルのもとに、年老いた患者が来ました。
彼は長年連れ添って愛した妻を亡くし、悲しみに明け暮れる日々を送っていました。
フランクル:「もし、奥様でなくあなたのほうが先に亡くなっていたとしたら奥様はどう感じていましたか?」
おじいさん:「おそらく妻はたいへん悲しんだと思います。」
フランクル:「であれば…あなたのおかげで奥様はその悲しみを逃れることが出来たんですよね?…だから…その苦しみには大いに意味があるんです。あなたは奥様を守る為に苦しみを受けているんですよ」
おそらく辛いこと苦しいことの経験はわざわざ出会いたくはないでしょうし、避けられるものなら避けたいものなのかもしれません。
でも忘れないでほしいのです。
貴方が前を向いて歩いてさえいれば、どんな辛いことでも意味はありますし、生まれることを!
エリートの落とし穴 子供の教育で追い詰める陥るパターン
親であったら、子供には素晴らしい人生を歩ませてあげたいと多くの親が考えることでしょう。
しかし子供に良かれと考え行った「教育」が子供の人生を狂わせることがままあります。
なぜ教育熱心な親が、子供を追いつめてしまうのでしょうか?
まず下記の①、②、③の例を見て欲しいと思います。
①ありがちなのは、親自身に学業に対するコンプレックスがあるケース。
自分には学歴がなくて苦労したという親は、子供になんとしても学歴を授けようとする。
②例えば、一見高学歴であっても、実は東京大学や医学部等に行けずに早慶や医以外の学部に行ったなどという場合に、成功体験と屈辱体験の融合が、わが子への歪んだ期待と感情となるケースです。
「子供には成功してほしい」という顕在的な願いの一方で、「子供にも屈辱経験を味あわせなければならない」という潜在的な欲求が混在し心に渦巻くのです。
だから、自分の成功体験に基づいて子供を激しくしつける一方で、子供の努力や成長を認めてやることができず、「お前はまだまだダメだ」というメッセージを発し続けがちになります。
③医学部や東大、ハーバード大等スーパーエリートの親が子供に過度な勉強を強いて、子供をつぶしてしまう悲劇もあります。
個人的には、①はよく見受けられるし、対策もそこらじゅうに書いてあるから案外端正は容易に思われます。
②に関しても、理解出来る方も多いのではないでしょうか。
「1番以外は全てダメ」という人はけっこう見受けられますが、そんなタイプでしょうか。
しかし盲点は、一見エリートに見え、周りからは成功者の親に見受けられるや③の場合です。
どうしてこんなことになってしまうのでしょう?
人は、最短ルートから外れることを過度に恐れる傾向があります。
そして、人は誰しも、自分の人生しか知り得ません。
常に最短距離を選んで歩いてきた人は、あえて回り道をしたり、道草などしないで育ちがちになります。
故にたった一度でも回り道をしてしまったら、大きな挫折と捉え、多大な精神的ダメージを負ってしまうのです。
たいていの場合は、早い時期にどこかで回り道を余儀なくされ、その脇道で思わぬ出来事に恵まれたりを繰り返したりして、最短ルートを行くだけが親の価値観だけが人生じゃないと学んでいくものです。
そして、そこからの人生の視野が広がったりしていくものなのです。
しかし幸か不幸か常に最短ルートを進むことが出来てしまった人は、その道しかわかりませんし、脇道に出たこともありません。
それで賞賛され続けていくわけですから、それが唯一の最も良い道だと信じて疑う機会がほとんどないことが予想されます。
故にその道以外は見えなくなり、視野が狭くなりがちになってしまうのです。
ですので最短ルートから外れることを過度に恐れるようになってしまうのです。
そうなると、子供ができれば、子供にも最短ルートを歩ませなければいけないと思い込んでしまう。
そうすることが子供のためであると信じて疑うことは少ないでしょう。
そのように育てられた子供が、一生思い通りの最短ルートを歩めれば、問題はないのでしょう。
しかし全ての人が、ビルゲイツのようになれたり、金メダルやノーベル賞をとれるわけではないわけです。
ですから、大方の子供がいつかそのルートから外れてしまう時が来るわけです。
そうなったときに、最短ルートしかわからない場合は、どうしたら良いかわからない。
対応が出来なくなってしまう可能性が高くなってしまうのです。
これが、③のケースの高学歴者やエリートの親が陥りやすい落とし穴なのです。
幸福は義務 幸福にならねばならない理由 不幸は伝染る アランの幸福論
「アランの幸福論」というものがありまして、
本名は、エミール=オーギュスト・シャルティエ
高校の哲学教師だったが、アランの名でデペーシュ・ド・ルーアン紙に哲学コラムを寄稿し続け、「幸福のためのプロポ」という投稿を書き続け新聞社に送り続けついに採用されると
83歳で亡くなるまで執筆活動を行った。幸福についてのコラムをまとめた『アランの幸福論』はいまなお多くの愛読者を持つということです。
ラッセルやヒルティと並び、3大幸福論者と言われています。
さて、このアランの幸福論の一つに、
「幸福になることは義務である 」
というものがあります。
権利ではなく義務です。
そう言われると、もしましたら、
「幸福になりたいけど、なれないんだ、いろいろあるんだよ。しょうがないじゃないか」
「何で幸せになんてならなきゃいけないんだ?そんなの個人の勝手じゃないか」
「不幸だっていいじゃないか、人それぞれでかまわんだろうが!余計なお世話だ」
言いたくなる人もいるのではないでしょうか。
私も最初そう思いましたが、よくよく考えてみますと、頷けることがわかったのです。
何故かと言うと
例えば…
ここで、空気感染する重度な病気にかかった人がいたとしましょう。
そうしたら、その人は、治療を強く勧められることでしょう。
病気によっては強制的に隔離されたりする可能性だってありますよね。
なぜなら感染ってしまうからです。
ですから、この場合には
「治療するかどうかは、俺が決める。俺の勝手だろ」
というわけにはいけませんよね。
重度な病気ならなおさら当人がそう言ったとしても、周りは
「治すべきだ」
「うつされたら困るなあ」
と思うでしょう。
つまり、感染症にかかった人は、治さなければいけないという義務を背負うことになりますよね。
賢明なあなたなら、もうわかりましたでしょうか?
「幸福」と「不幸」というのはこれと同じなのです。
例えば、あなたの近くに不幸な人がいたとします。
その人が会う人会う人に対し
「俺は何をやってもダメな人間だ」
「人生は辛いことばかりだ。幸せなんてあるわけない。」
と言いまわっていたらどうでしょう?
おそらくあなたを含め、周りの人のテンションが下がってしまうことでしょう。
そんなこと言わないとしても、1人だけ沈んだ顔をしている人がいたら、それでもやはりその人のローテンションに引きづられてしまうことになるでしょう。
このように「不幸」というのは伝染するのです。
だから、「不幸」というのは治さなければいけないものなのです。
逆に「幸福」も伝染します。
周りの人を幸せにしたかったら、あなたも幸福にならねばならないのですよ。
そして、それは、「権利」でなく「自由」でもなく、それより先にある「義務」なのです。
アランの幸福論の一つなのですが、この考え方って重要だと思いませんか?
一見「義務」と考えることは押し付けがましいかもしれません。
でも、そう考えると社会全体から、後押しされて幸せに向かって進めていけると思いませんか?
「あなたは幸福になる義務がある」のです。
劣等感はネガティブなものではない。むしろ歓迎すべきこと
「劣等感」というのはネガティブなものと考えがちです。
でも考えようによってはそういうわけでもありません。
能力が劣っていると思ったなら、人の倍努力すればいい。
そのモチベーションを保つのが「劣等感」であったりするのです。
例えば、身体的や社会的なハンデを背負っていて、それを糧に克服しようと努力を重ねた結果成功を得たという人も少なくありません。
ただし、優劣を他人との比較で考え過ぎるというのも考えものです。
あなたにとって理想とする人物がいたとして、そういうふうになりたいと思うことはあるでしょう。
でも、他人になろうとしても決してなれませんし、またなる必要もないのです。..
ですから、優劣の比較する場合、他人との比較よりも自分自身との比較で考えるほうがより建設的です。
自分の考える「自分自身の理想像」に自分が成長していくことです。
いずれにしても、重要なのは、実際に「行動」すること
「俺は性格がxxだから…」
「俺は能力が無いから…」
という原因を理由として諦めないでください。このような言葉は
「動きたくない」
「行動しない」
という目的を達成するために使用しているに過ぎません。
「性格」や「能力」を理由にしても、何も始まりません。
大事なのはとにかく行動し、少しずつでもいいから、自分を大きく育てていくことなのです。