決断しないこと自体が最悪の選択
イスラエルの心理学者、メラマードによれば、優柔不断な人ほど、不安を抱えやすい傾向があるそうです。
実際、迷えば迷うほど、大切な時間は過ぎ去っていきます。
精神科医であるシュピッツバートによれば、
大事なのは「決断の結果ではなく、決断すること自体である」と述べています。
考えてみれば、迷うということは、「どの選択肢にもほぼ同じ価値がある」とあなたが判断している証拠です。
それなら、些細な差を気にして時間をかけて悩むより、さっさと決断したほうがいいということがわかると思います。
それに、早く決断すればするほど、行動するための時間が生まれます。
たとえものすごくいい選択肢を選ぶことができたとしても、そのときにあなたがおじいさん・おばあさんになっていたら、意味がないのではないでしょうか。
またシュピッツバードは
「君がどんなに選択から逃げているつもりでも、実はそれは『選択を先延ばしにする』という、最悪の選択をしているに過ぎない。」とも述べています。
結局人は、選択から完全に逃れることなど不可能なのです。
ですから、
何かの決断で迷ったら、とにかく「結果」よりも「今決断することが大切」と考えること。
もしどうしても決断できないなら、コインやサイコロなどで決めてしまうほうが遥かに健全です。
さあ、今すぐ決断のサイコロを振ってみましょう!!
最愛の妻を亡くしたおじいさんへのフランクルの答え
人は誰しも、ときには、絶望にかられるときだってあることでしょう。
ましてや、強制収容所に収容された大半のユダヤ人はそれ以上に絶望の日々に明け暮れたことでしょう。
「ナチスの強制収容所に入れられ、いつガス室に送られるのか」という日々...
そんな日々に、どうやって幸せを見いだせというのか?
そんな過酷な日々を生き抜いたヴィクトール・フランクルの言葉には重みがあります。
そんなフランクルのエピソードの一つです。
ある日フランクルのもとに、年老いた患者が来ました。
彼は長年連れ添って愛した妻を亡くし、悲しみに明け暮れる日々を送っていました。
フランクル:「もし、奥様でなくあなたのほうが先に亡くなっていたとしたら奥様はどう感じていましたか?」
おじいさん:「おそらく妻はたいへん悲しんだと思います。」
フランクル:「であれば…あなたのおかげで奥様はその悲しみを逃れることが出来たんですよね?…だから…その苦しみには大いに意味があるんです。あなたは奥様を守る為に苦しみを受けているんですよ」
おそらく辛いこと苦しいことの経験はわざわざ出会いたくはないでしょうし、避けられるものなら避けたいものなのかもしれません。
でも忘れないでほしいのです。
貴方が前を向いて歩いてさえいれば、どんな辛いことでも意味はありますし、生まれることを!
エリートの落とし穴 子供の教育で追い詰める陥るパターン
親であったら、子供には素晴らしい人生を歩ませてあげたいと多くの親が考えることでしょう。
しかし子供に良かれと考え行った「教育」が子供の人生を狂わせることがままあります。
なぜ教育熱心な親が、子供を追いつめてしまうのでしょうか?
まず下記の①、②、③の例を見て欲しいと思います。
①ありがちなのは、親自身に学業に対するコンプレックスがあるケース。
自分には学歴がなくて苦労したという親は、子供になんとしても学歴を授けようとする。
②例えば、一見高学歴であっても、実は東京大学や医学部等に行けずに早慶や医以外の学部に行ったなどという場合に、成功体験と屈辱体験の融合が、わが子への歪んだ期待と感情となるケースです。
「子供には成功してほしい」という顕在的な願いの一方で、「子供にも屈辱経験を味あわせなければならない」という潜在的な欲求が混在し心に渦巻くのです。
だから、自分の成功体験に基づいて子供を激しくしつける一方で、子供の努力や成長を認めてやることができず、「お前はまだまだダメだ」というメッセージを発し続けがちになります。
③医学部や東大、ハーバード大等スーパーエリートの親が子供に過度な勉強を強いて、子供をつぶしてしまう悲劇もあります。
個人的には、①はよく見受けられるし、対策もそこらじゅうに書いてあるから案外端正は容易に思われます。
②に関しても、理解出来る方も多いのではないでしょうか。
「1番以外は全てダメ」という人はけっこう見受けられますが、そんなタイプでしょうか。
しかし盲点は、一見エリートに見え、周りからは成功者の親に見受けられるや③の場合です。
どうしてこんなことになってしまうのでしょう?
人は、最短ルートから外れることを過度に恐れる傾向があります。
そして、人は誰しも、自分の人生しか知り得ません。
常に最短距離を選んで歩いてきた人は、あえて回り道をしたり、道草などしないで育ちがちになります。
故にたった一度でも回り道をしてしまったら、大きな挫折と捉え、多大な精神的ダメージを負ってしまうのです。
たいていの場合は、早い時期にどこかで回り道を余儀なくされ、その脇道で思わぬ出来事に恵まれたりを繰り返したりして、最短ルートを行くだけが親の価値観だけが人生じゃないと学んでいくものです。
そして、そこからの人生の視野が広がったりしていくものなのです。
しかし幸か不幸か常に最短ルートを進むことが出来てしまった人は、その道しかわかりませんし、脇道に出たこともありません。
それで賞賛され続けていくわけですから、それが唯一の最も良い道だと信じて疑う機会がほとんどないことが予想されます。
故にその道以外は見えなくなり、視野が狭くなりがちになってしまうのです。
ですので最短ルートから外れることを過度に恐れるようになってしまうのです。
そうなると、子供ができれば、子供にも最短ルートを歩ませなければいけないと思い込んでしまう。
そうすることが子供のためであると信じて疑うことは少ないでしょう。
そのように育てられた子供が、一生思い通りの最短ルートを歩めれば、問題はないのでしょう。
しかし全ての人が、ビルゲイツのようになれたり、金メダルやノーベル賞をとれるわけではないわけです。
ですから、大方の子供がいつかそのルートから外れてしまう時が来るわけです。
そうなったときに、最短ルートしかわからない場合は、どうしたら良いかわからない。
対応が出来なくなってしまう可能性が高くなってしまうのです。
これが、③のケースの高学歴者やエリートの親が陥りやすい落とし穴なのです。
幸福は義務 幸福にならねばならない理由 不幸は伝染る アランの幸福論
「アランの幸福論」というものがありまして、
本名は、エミール=オーギュスト・シャルティエ
高校の哲学教師だったが、アランの名でデペーシュ・ド・ルーアン紙に哲学コラムを寄稿し続け、「幸福のためのプロポ」という投稿を書き続け新聞社に送り続けついに採用されると
83歳で亡くなるまで執筆活動を行った。幸福についてのコラムをまとめた『アランの幸福論』はいまなお多くの愛読者を持つということです。
ラッセルやヒルティと並び、3大幸福論者と言われています。
さて、このアランの幸福論の一つに、
「幸福になることは義務である 」
というものがあります。
権利ではなく義務です。
そう言われると、もしましたら、
「幸福になりたいけど、なれないんだ、いろいろあるんだよ。しょうがないじゃないか」
「何で幸せになんてならなきゃいけないんだ?そんなの個人の勝手じゃないか」
「不幸だっていいじゃないか、人それぞれでかまわんだろうが!余計なお世話だ」
言いたくなる人もいるのではないでしょうか。
私も最初そう思いましたが、よくよく考えてみますと、頷けることがわかったのです。
何故かと言うと
例えば…
ここで、空気感染する重度な病気にかかった人がいたとしましょう。
そうしたら、その人は、治療を強く勧められることでしょう。
病気によっては強制的に隔離されたりする可能性だってありますよね。
なぜなら感染ってしまうからです。
ですから、この場合には
「治療するかどうかは、俺が決める。俺の勝手だろ」
というわけにはいけませんよね。
重度な病気ならなおさら当人がそう言ったとしても、周りは
「治すべきだ」
「うつされたら困るなあ」
と思うでしょう。
つまり、感染症にかかった人は、治さなければいけないという義務を背負うことになりますよね。
賢明なあなたなら、もうわかりましたでしょうか?
「幸福」と「不幸」というのはこれと同じなのです。
例えば、あなたの近くに不幸な人がいたとします。
その人が会う人会う人に対し
「俺は何をやってもダメな人間だ」
「人生は辛いことばかりだ。幸せなんてあるわけない。」
と言いまわっていたらどうでしょう?
おそらくあなたを含め、周りの人のテンションが下がってしまうことでしょう。
そんなこと言わないとしても、1人だけ沈んだ顔をしている人がいたら、それでもやはりその人のローテンションに引きづられてしまうことになるでしょう。
このように「不幸」というのは伝染するのです。
だから、「不幸」というのは治さなければいけないものなのです。
逆に「幸福」も伝染します。
周りの人を幸せにしたかったら、あなたも幸福にならねばならないのですよ。
そして、それは、「権利」でなく「自由」でもなく、それより先にある「義務」なのです。
アランの幸福論の一つなのですが、この考え方って重要だと思いませんか?
一見「義務」と考えることは押し付けがましいかもしれません。
でも、そう考えると社会全体から、後押しされて幸せに向かって進めていけると思いませんか?
「あなたは幸福になる義務がある」のです。
劣等感はネガティブなものではない。むしろ歓迎すべきこと
「劣等感」というのはネガティブなものと考えがちです。
でも考えようによってはそういうわけでもありません。
能力が劣っていると思ったなら、人の倍努力すればいい。
そのモチベーションを保つのが「劣等感」であったりするのです。
例えば、身体的や社会的なハンデを背負っていて、それを糧に克服しようと努力を重ねた結果成功を得たという人も少なくありません。
ただし、優劣を他人との比較で考え過ぎるというのも考えものです。
あなたにとって理想とする人物がいたとして、そういうふうになりたいと思うことはあるでしょう。
でも、他人になろうとしても決してなれませんし、またなる必要もないのです。..
ですから、優劣の比較する場合、他人との比較よりも自分自身との比較で考えるほうがより建設的です。
自分の考える「自分自身の理想像」に自分が成長していくことです。
いずれにしても、重要なのは、実際に「行動」すること
「俺は性格がxxだから…」
「俺は能力が無いから…」
という原因を理由として諦めないでください。このような言葉は
「動きたくない」
「行動しない」
という目的を達成するために使用しているに過ぎません。
「性格」や「能力」を理由にしても、何も始まりません。
大事なのはとにかく行動し、少しずつでもいいから、自分を大きく育てていくことなのです。
数学的戦略 お見合い、面接、ベストな人を選ぶには?
【問題】 あなたは今から、20人の異性と順番にお見合いします。
出来る限りベストな異性を選択したいところですが、こんなとき、あなたなら、どうしますか?
又は「会社の面接の採用で20人の入社希望者がいいて」などに例えてもいいかもしれません。
ただしルールがあります。
1 結婚を申し込んだとき、相手から断られることはないものとする。
2 結婚を申し込めるのは、一度だけ。
3 一度断った相手とは、二度と会えない。
さて答えは…こちら
まとめてみますと、
(1)はじめの5人はとにかく見送る。
(2)6~10人目は、それまでで最高だったら声をかける。
(3)11~13人目は、それまでで最高か次点なら声をかける。
(4)14~15人目はそれまでの3位以内だったら、
(5)16人目はそれまでの4位以内なら、
(6)17人目はそれまでの5位以内なら、
(7)18人目はそれまでの7位以内なら、
(8)19人目はそれまでの10位以内なら、
(9)20人目は後がないのでその人に声をかける。
いかがでしたでしょうか。
あくまでも確率論の話ではあるのですが、この方法のスゴいところは、この方法を使えば、「平均して」3位以内の人と結婚できることだそうです。
まあ…「平均して」というところがポイントです。
最初のスルーした5人に、上位3人が入っちゃう可能性もあるんですが…
まあざっと見てみると、(4)のあたりから、少しずつ「妥協」が始まっているのが分かりますね。
簡単にまとめてみますと、
☆ 最初の4分の1(1~5人目)は、様子見でOK
☆ 4分の1~半分ちょっと(6~13人目)あたりまでは、1位が出たらその人で決定
☆ 4分の3(14人目以降)あたりを過ぎたら3位くらいでも決定すべき
この話から学んで、人生の教訓として生かすとしたら次のことが言えるのかなと思います。
☆目標が出来たら、すぐに「期限」を決めること。
☆その期限のうち、「半分」を過ぎた時点で『ベスト』と思ったら、迷わずそれに決めてしまうこと。
もし、それ以上、決めずにダラダラするのは時間の無駄である。
ということです。
もし、あなたに夢や目標があったとして、まだやっていないとしたら、
目標期間の半分を過ぎていたとしたら…
今すぐ始めましょう。
いいデートの判断は、相手の表情でわかる?
秋葉原心療内科/モテるマンガ第6回「最初のデートは1時間!」 by ゆうメンタルクリニック
「いいデートかどうか?」は、人は相手の雰囲気や表情を見て判断しがちです。
かのニーチェは言いました。
「お前が深淵をのぞくならば、深淵もまたお前をのぞくのだ。」
これはデートにも応用できます。
すなわち「あなたが相手をのぞくならば、相手もまたあなたをのぞく」のです。
つまり、相手の方もあなたと同じように、あなたの表情や雰囲気を見て判断するのです
であれば、相手を観察するよりも、まず大事なことは
「あなた自身がいい表情、雰囲気をすること」です。
すると、相手は
「これはいいデートなんだ!!」と判断するのです。
デートでも、仕事でも取引でもいろいろな付き合いがありますが、
その人との出会いや会話を楽しいものいいものにしたいのなら、
相手が楽しんでいるかどうか観察するよりも、まずはあなた自身が相手に対して「いい表情、雰囲気をすること」ことが重要なのです。
さあ、背筋を伸ばし、にこやかな微笑みをしてみましょう。
さすれば、あなたも相手もきっと楽しい時間が過ごせることでしょう。