なぜ日本人は他人の目や評価を気にする傾向が強いのか?歴史観 から考える
「欧米では~~が正式」
「北欧では~の教育をしている」
「日本人は外国に比べて~だからダメなんだ」
よく聞こえてきます。
歴史の授業で 「世界史」というジャンルを教わった経験がある方も多いかと思います。
おそらく、義務教育時点から自国史に加えて、世界史をも学ぶのは日本くらいではないでしょうか。
日本で学ぶ「世界史」とは、これはヨーロッパの学者の論文や解釈に基いて書かれています。
いわばヨーロッパから観た歴史観と言って良いでしょう。
気のせいかもしれませんが、日本人というのは、他者からの評価を気にする傾向が強い気がします。
他人や他国を称賛する傍ら、自国や自分のものを卑下したりするのもこの国の特徴的なところかもしれません。
その原因の一つにこの歴史観にあるような気がします。
歴史観というよりは、歴史教育といったほうがいいかもしれません。
もちろん「他国の立場で考える」ということは、必要ですし、むしろ推奨される場もあると思います。
また「自分の立場や評価」よりも「他人の立場の評価」を中心に生きていくというのも一つの生き方でしょう。
ただ、「他者の評価」というのは自分の価値観では生きていないということですから、どうしても心理的精神的に、無理が来る人も多いのかもしれません。
例えば国別幸福度調査というものがあるのですが、これを参考にしてみますと、先進国の中では日本がいつも最下位付近をさまよっています。
あくまでもこの調査での尺度ではありますけれど
国の豊かさの割には、幸福度が低いのは、もしかしたらこれと関係あるのかもしれません。
世界の国別幸福度ランキングが公開!1位はデンマーク、日本は上位30ヶ国にも入らず | gori.me(ゴリミー)
また、それをやり続けたからと言って評価され続けていく保証などどこにもないのです。
例えば過去の「人気企業ランキング」なんてものを見てみると、
時代によって浮き沈みはあることがわかるでしょう。
今現在評価が高いからと言って、数10年後にもそれが続くことはむしろ少ないものです。
例えば今あなたが手にしているPCだって20数年前くらいには、一部のマニアだけが閲覧するようなものでしたし、タブレット、スマートフォンだって10年前くらいには持っている方が珍しかったのです。
また、画家の巨匠と言ってもいいあのゴッホでも、評価されたのは彼の死後でした。
話が反れましたが、日本人は歴史を自分の立場からだけでなく、他国の立場からも考え出来るだけ中立的に考える傾向があるようです。
さきほど書きましたように日本で言う「世界史」とは、はヨーロッパの立場による見解です。
他国から見た歴史を学ぶというのは、とても珍しいそうです。しかも日本は義務教育段階でそれをやっています。
外国では、自分の国の立場から見た歴史、自国に関連のある史実以外はあまり学ばないのが一般的のようですので、
おそらく日本人的な観点で外国の歴史教育を見たら、外国で行っている歴史教育はほとんどが「過度の愛国主義」や「極右」になってしまうと思います。
こんなところも、他者の立場で考え、他者からの評価をもとに生きている人が日本に多い理由の一つに思います。
これの善悪はともかくとしても、日本の歴史教育は世界ではかなり特殊であり、稀な例であるということは覚えていてもいいのかもしれません。
ただ、考えてみれば、自分の歴史を、自分の目ではなく、他人からの目で評価してもらい決めてもらうのは、いささかおかしい気もします。
例えばフィンランドとテキサスについて言えば、
フィンランドの歴史について、フィンランド人とロシア人が書くのは違うだろうし
テキサスの歴史はアメリカとメキシコでは別の書き方をするでしょう。
もっと適切に言えば、民事で争う二人の立場のようなものなのです。
史実に嘘がなければよいので解釈がお互いに違っていて当然なのだと思うのです。
もちろん、他人や他国に習っていくことも必要でしょう。
他人や他国の不利益になるようなことは避けたほうがいいでしょう。
また、他人や他国に評価が高いに越したことはありません。
ですが、他者や他国から見た自分に対する感想を聞いて、それで良し悪しを決めて、それに習っていけばいいんだというのは、どうなのか。
他国や他人の意見は聞いたり、取り入れるにせよ、それだけではなく、最終的には自分自身で考え、物事はその上で判断したいものです。