差別の原因 優劣の社会構造が出来てしまう仕組み 「青い目と茶色い目~教室は目の色で分けられた」から考えてみる
日本人どうしも青い目の子も生まれるのか
白人、黒人、黄色人、
ホモセクシャル、レズビアン、バイセクシャル
悲しい哉、この世界にはどうしても「差別」の対象として扱われてしまう事象が無数に存在しています。
また、同じ人種間の間でも、男性VS女性、老人VS若者、国VS国、健常者VS障害者、
貧しい者VS富める者のように、優劣を付け合うなどということもあったりします。
人は、自分の優れているものを見せたい、また他人の劣るものを見つける能力を本能的に備えているようにも見えます。
まだ人類が誕生した太古の時代には、食料も十分ではありませんでした。
その時代には、弱肉強食の時代が幾度となくありました。そういった状況では、自然淘汰に従い、自分の優秀さを見せつけることや他人の劣るところを攻めることが、生き残り、または子孫を残すための条件の一つだったのだと考えられます。
その為に、自分の優位性を誇示したり、他人に対し見下したりすることが本能的になっているのかもしれません。
地球上の生物全般がこういう傾向はありますが、特に人には言葉というものが備わっていますからね。
言葉による自分の優位性の主張や他人の批判は、ホモ・サピエンスの宿命なのかもしれません。
現在でも、人の不幸を垂れ流すワイドショー、喫茶店で聞き耳をたてれば人の影口悪口が聞こえてくるのは日常茶飯事のこと。
掲示板などには誹謗中傷で溢れていますし、SNSやブログを見ても、他人の批評や批判、または、自分がいかに優れているかの主張をいくらでも見ることが出来ます。
特にアザラシが最上位の生物と言って聞かない、某海豹仙人という奴のブログの与太話はそれはもう酷いものです。
人一倍欲張りな私などインターネット上に
「1億儲けた」という凄腕投資家やトレーダーの記事を見つけると悔しがり、
「結婚した、ゴールイン」などと書いてあれば羨ましがります。
逆に「離婚、破産」などと書いてあれば喜んでいたりするのです。
優劣をつけるのは、人の本能だとすれば、
このことは人類の発展を促した事実も否めませんので、一概に否定するものではないのですが、行き過ぎると、弊害を及ぼすことも確かです。
食料を得るのに四苦八苦する世の中ならともかく、特に食べるのに困らないこの日本では、弊害のほうが大きいように思います。
ですが、差別をなくしたいと、口で言うのは簡単ですが、これを実際に無くすことはなかなか難しいことだと思います。
これに対し、ヒントを投げかけた小学校の先生がいます。
青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ - Dailymotion動画
差別される側の気持ちを実際に体験し、子供たちの人種差別に対する考え方を変えさせることを目的に、1968年、アメリカ、アイオワ州ライスピルの小学校で「実験授業」が行われました。
小学校3年のクラスを青い目と茶色い目の子どもに分け、
「青い目の子はみんな良い子です。だから5分余計に遊んでもよろしい」
「茶色い目の子は水飲み場を使わないこと。茶色い目の子はダメな子です」
というように、青い目の人は優れていて茶色い目の人は劣っていると決めつけて1日を過ごすのです。
茶色い目の子は差別されている象徴のような襟を着用させられます。
遊具を使うことも給食でおかわりすることも許されません。
また、先生は茶色い目の子供が何か失敗をするたびに「茶色い目の子供はこれだから困る」というように批難するのです。
突如始まったこの実験により、教室は15分もしないうちに真っ二つに分れてしまいます。
さらには殴り合いの喧嘩までに発展。
仲の良かった子どもたちの心は、簡単にバラバラとなってしまうのでした。
変わって2日目は、今度は逆に「茶色い目の子ども」が優遇されるようにするのです。
「青い目の子は水飲み場を使わないこと。青い目の子はダメな子です」というように昨日の逆をやるのです。
昨日まで息巻いていた「青い目の子ども」は、途端に肩身が狭くなり、表情がみるみる強張っていきます。
こうして2日にわたり差別の理不尽さを身をもって理解した子どもたちに
「目の色で差別していいの?」
「肌の色が黒か白か黄色か赤かで、人を区別するの?」
「良い人か悪い人か肌の色でわかるの?」
と、先生は問うのです。
そしてその問いに、子供たちは、大きな声で
「NO!」
と答えるのです。
実験で使われた「襟」をちぎり捨てる男子生徒。
彼の心には、新しい決心が生まれたことでしょう。
またこの実験の最中、その女性教師は
あるほぼ同じ難易度の問題を生徒達に出題し、
その問題を解くまでの時間を計測するという事も行っていました。
一日目の茶色い目の子供達は1日目に5分以上かかった問題を
2日目には3分とかからず解いてしまったというのです。
そして同じテストを青い目の子供達にも行った結果
やはり1日目は3分ほどで解く事が出来た問題に
4分以上もの時間を要してしまったのでした。
これは自分達が「優れた人間である」という意識が
子供達の能力そのものを高めた結果に他なりません。
実際に差別を受けていた子供達は
その日は常に憂鬱な気分になってしまい、
何に対してもやる気が起きなかったと言っています。
これは社会にはびこっている人種問題と同じ構造であり、
人種だの、国籍だの、性別など差別には先に述べたように様々なものがありますが、
それに対しあなたは「差別は愚かなことだし、するつもりもないし、そんなことは理解しているよ」と言うかもしれません。
しかし、その場の権力者(この場では教師)の一言で、人は人を簡単に差別してしまう可能性があること
参考記事→ミルグラムの実験「権威者への服従」
そして、差別しているほうは、差別を受けるものの辛さを決して理解は出来ないこと
これを忘れないで欲しいのです。
親であれば、何気なく子供に「~~のような子は優れている、又は劣っている」
などと言って根拠の無い先入観を植え付けすぎると、そのままその子の価値観になってしまうことだって少なくないのです。
そして、思うのは、
貴方が人生を歩むにあたり
自分が苦境に立たされているとき、
そういうときにこそ、物事の本当の原因を見据える姿勢が大切なのだという事を忘れないで欲しいのです。
この世界の出来事そのものは中立的な現象であり、出来事そのものに優劣はありません。
そして、世界はどこまでも平等であり貴方のことを区別も差別もしません。
「優劣」「差別」というものは、人の心が生み出しその中にのみ存在しているのです。