幼少時、子供時代の刷り込みから自分の定義へ。「恥ずかしい」「みっともない」は自分で決めればいい。
デパートでショッピングしていると、こんな声が聞こえてきた。
「そんな恥ずかしいことしないの!みっともない」
子供が地べたに寝転んでいて、それを母親が、注意をしているようだった。
よく見かけると言えば見かける光景である。
地べたに寝転んでいては、確かに衛生的にも、また通行人などのことを考慮したとするならば、安全面にも支障をきたす可能性はある。
起き上がらせるのは、生物の生存本能の観点からは適切な行為なのかもしれない。
しかし「恥ずかしい」というのはどうなのか?
「恥ずかしい」ってなんだろうか?
「○○なんかして、恥ずかしい」
○○の中は、人によって千差万別であり、あらゆることが入るであろう。
友達に「今までで一番恥ずかしかったことって何?」
書いてもらって、それを見てみるといいだろう。
きっと「え?こんなこと」なんてものがけっこう出てくるであろう。
あなたの恥ずかしいはなんですか?
「恥ずかしい」という対象は、定義は決まっておらず
人の数だけあると言っていい。
例えば、今現在は「戦争反対」と言っても、誰も非難はしないかもしれませんが、
戦争中に反対していたら、親類や友人、親には「恥ずかしいこと言うな」と言われたり、周りには「非国民」となじられ、捕まって牢に入れられることさえあったといいます。
「恥ずかしい」とか「みっともない」とか「非常識」の定義は、人によっても、国によっても、時代によっても異なってしまいがちな曖昧なものなのです。
一般には、価値観の形成は、幼少時代の親、特に母親の影響が強いと言われています。
さて、さきほどのデパートでの子供と母親の話しに戻すと、
この言葉を言われた子供は「○○する」ことを
「良くない事」
「恥ずかしい事」
と認識するでしょう。
そして、将来「○○している」人を見る度に
その人を軽蔑したり、嫌悪感を抱くようになる可能性が高く、自分でもそれをやってしまった場合恥じることになり、心のブレーキを一つつくってしまったことになるのです。
心の中にネガティブイメージの材料をつくってしまうのである。
そのお母さんのまたお母さんも同じようなことを言っている確率が高いらしい。
さて、あなたの「みっともない」「恥ずかしい」
はなんでしょうか?
それを発見する方法として、
あなたが「嫌悪感を抱く言葉」「腹が立つこと」
また、「軽蔑している人物」
を思い浮かべてみましょう。
心に反応するものがあるとしたら、もしかしたらそれかもしれません。
さて、それは、親や他人の影響でなく、自分自身で決定したことでしょうか?
そのことは、本当に「恥ずかしい」ものでしょうか?
また「怒り」「嫌悪」「軽蔑」なのでしょうか?
本当に、恥じたり、怒ったりしなければいけないことですか?
そのことは、あなたの生命の危険を脅かすものですか?
胸に手をあてて、改めて考えてみて下さい。
すると、全部が全部そうではないことがわかるでしょう。
「恥ずかしい」ことがこの上ない快感という変人でもない限りは、
他人が決めた絵空事の為にあなたが、恥ずかしいと言ってやりたいことを躊躇したり、その対象を怒ったり悲しんだりしては、もったいないと思いませんか?
あなたが「恥ずかしい」「悲しい」「ムカつく」
と思うことを、もう一度、あなた自身の価値観で洗いなおしてみましょう。
そして、これからは、どんなことが自分にとって「恥ずかしい」のか「面白い」のか「楽しい」のか?
それらの感情を自分で考え、選択し、決定してみましょう。
何が見えましたか?
物事をどう見るか、どういった感情を選択するかの決定権は他でもないあなたにある。
今日もあなたが素敵な感情を抱けますように