会社で妬みや嫉妬を感じた時には、少し考えてみよう
「あいつ、俺より先に出世しやがって」
「なんで給料があいつより少ないんだ」
私がサラリーマン時代によく言っていた言葉です。
人は何かにつけて人に対し「羨ましい」などと思ったり、嫉妬したりするものです。
このような妬みや嫉妬が前向きなエネルギーに変えられたりならそれに越したことはないですが、現実にはそうはなかなかいかないものです。
少なくとも私には出来ませんでした。
実はこのような妬みというものをもつことと言うのは、その会社や組織に完全にあなたが掌握され、操り人形にされていることに他ならないからです。
「操り人形になりたい」「奴隷になりたい」という自虐願望があるという奇特な方は別にしても、一般にはこの「妬み」や「嫉妬」というのはあまり得策ではないのです。
それは、「妬み」「憎しみ」というのは、同じルールの範囲でしか起こらないからです。
例えばサッカー好きが、サッカーの上手な人に嫉妬することはあっても、野球が上手な人にそれほど嫉妬することはないですよね。
会社内で妬みの感情を持つということは、相手と同じ土俵上に立っているということにほかならないのです。
それは、つまり、その会社内でつくられたルールや価値観を自ら受け入れて認めてしまっているということなのですよ。
仮にあなたが、出世した同僚に嫉妬したとしましょう。
それは、自分も同じように出世したいという意識を潜在的に持っているということであるわけです。
ここでの出世の条件やルールというのは、その会社が定義したものであり、あなたが創ったものではないのです。
もう、おわかりでしょう。
その時点で、あなたはその会社のルールや価値観に縛られ、「使われる立場」になってしまっているということなのですよ。
簡単に言うと「その会社の定めた既定路線というレールを進めたら◯、勧めなければ☓」という価値観のみで生きているということなのです。
同じように「勝ち負け」に拘る人も、やはりそのルールに縛られる可能性が高いと言えます。
誰かを妬んだりしたときに、このような固定された狭義のルールに縛られていないか少しだけでも考えてみましょう。
そこには何か別の価値観が開かれ、あなたの成功の道標べになるかもしれません。
苦労話、我慢、忍耐自慢をする人の心理
本末転倒…
「世の中にはもっと辛い人がいるんだから」
「俺がお前くらいの頃は、そんなもんじゃなかったぞ、もっと厳しかったんだぞ!」
「あんたなんかまだ全然マシだよ、私なんてさ、会社でこんなことやあんなことが…」
「みんな疲れてるけど頑張っているんだよ」
「お前は努力というものを知らない」
「お前の為を思って敢えて厳しいことを言ってるんだ」
帰るのはいつも終電間際で、残業代はほぼゼロというブラック企業で働いていた頃に私もよく言われていた言葉です。
言う側としては、本当にアドバイスのつもりだったり、人の為と思って言ってくれている場合もあるかもしれませんが、
この類いの言葉は、
「俺が苦しんだんだから、お前も苦しめ」
「お前だけ楽してズルい」
をほぼ言い換えたものも多いのです。
たしかに、世の中にあなたよりもっと過酷な状況の人はたくさんいることでしょう。
もっと我慢してる人もいるでしょうし、もっと努力している人もいるでしょう。
でも、そんなことはあなたには関係ありません。
そもそもあなたが、我慢し続けたとして、例えば過労で倒れたとして、誰が責任をとってくれるのでしょう?
「あなたの為を思って」と言っていた人々は助けてくれるのでしょうか?
おそらく、責任はとってくれないでしょうし、助けてくれることもないことは容易に予想出来るでしょう。
今日もどこかで
「俺のほうが辛い!」
「私のほうが我慢してる!」
「いや俺のほうが◯☓◯☓…」
こんな争いが繰り広げられていることでしょう。
このような「不幸競争自慢」「我慢チャンピオン大会」には参加したい人だけが参加すればいい。
そこでチャンピオンになっても、何も得るものはありません。
それどころか、不毛な争いに精神的に疲れてしまうだけでしょう。
こんな大会にわざわざ参加する義務などありません。
あなたは、あなたで幸せになればいいのです。
人のせいにしようか?自分の責任としようか?どっちが得?
「あいつがあんなこと言うから~になった」
た」
「こうなったのはあいつのせいだ」
よく聞く言葉です。
私もサラリーマン時代には、しょっちゅう言ったり思ったりしていました。
人は、ついつい自分の失敗を他人のせいにしたがるものです。
たしかにそのことで心が軽くなるときもあるでしょう。
ですが、このような他人のせいにする行為はあなたを更に貶めてしまう可能性を含んでいます。
「こうなったのは、親のせいであって、俺の責任じゃない」
「今のこの悪い状態に至ったのは、あの人の責任だ。自分は悪くない」
「俺が破産したのは、あいつが投資話を持ち込んできたせいだ」
言いたい気持ちは、痛いほどよくわかります。
私などかつてはあなたの何倍も言っていた言葉かもしれません。
でも、たとえそうだとしても、言われたとおりにやって失敗したにせよ、
失敗した時は他人のせいにするのではなく、
「自分の努力不足のせいだ」
と考えるほうが結果的にはいい方向にいくのです。
このように他人のせいにしていたら、反省などしないでしょう。
ですから、今後「どうしたら上手く出来るようになるか」「今後失敗しないためにはどうしたらよいか?」
そんなことを考えることもないでしょう。
そして、きっとその先その努力もしないだろうし、よって成長もしないのです。
そもそも人というのは、実際にある程度痛い目に遭わなければ、なかなかわからないことも多いのです。
そうではなく、もし「自分の責任」と認めることが出来たなら、「自分で何とかするしかない」「頑張ってみよう」
という、前向きなモチベーションが湧いてくるはずです。
同時に
「自分で責任をとる」という行為は、自分のことは自分でコントロール出来ているということなのです。
逆に他人をコントロールすることは、まず出来ません。自分の思い通りに他人を反省させるなんてことは出来ません。
ですから、いつまでも周りの人に左右される人生になってしまいます。
また「他人を妬む、恨む」ということに時間をとられることが増えていきます。
それって無駄な時間だと思うのです。
全てではないにせよ、周りに左右されない自分自身の人生を生きていきたいなら、出来るだけ他人のせいにせず、「自分の努力不足」であると考えてみましょう。
成功本や自己啓発書、成功者の共通点はただ1つ
こんな話があります。
あるところに1日30人の新規客が訪れるというレストランがありました。
何でそんなにお客さんを新規開拓できるのか、ある人が訪ねたところ
「私は、1日に30人のお客を集める方法は知りません」
「ですが、1日に1人のお客を集められるであろう方法を30個実行しているだけです。」と…
自己啓発本や成功本を何百冊も読んでみたり、成功者の共通点を並べてみて個人的に思ったことは
言っていることは
「とにかく行動しろ!!」
「とにかく思った行動は全部やれ」
これに帰結します。
もちろん思考がまったくムダとは言いませんが、とにかく行動した方が、ずっと状況はうまく進むのです。
これは始めた後も同じで、
「何年後にこうなっているので駄目なのでは?」
「こんなことが起こったらどうすればいいのだろう?」
ということを考えたり、また人に言われたりするものですが、
どんなに必死に考えて、研究しつくしたように思えても、実際に予想通りになることなんて、ほとんどありません。
どんな優秀な人のアドバイスといえども同じです。
もちろんそのように予想することや考えることがまったく無駄とは言いませんが、
とにかく行動した方が、ずっと状況はうまく進むのです。
たぶん何年か後には、その想像もつかない状況になっていることもあるはずですからね。
ただ確かに「一か八かの大勝負」のカッコイイですが、全く考えもなしに大量の予算をかけてしまうのは賢明ではないかもしれません。
個人的には、大きな勝負を1つ2つやるのではなく、小さな勝負、低予算の勝負をたくさんやることがいいのではと思ったりします。
それなら失敗しても痛手ではありません。投資で言う「分散投資」「リスクヘッジ」のような感じですかね。
そしてやってみて一つでもうまく行きそうなものが出てきたら、そこに予算や労力を再投入すればいいわけです。
それでも「もう若くないし、新たに行動を起こすなんて出来ないよ」という人もいるかもしれません。
でも敢えて言いますが、それでもやりたいと思ったことはやってみるべきです。
もしそれでもという方は、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースがKFCを起業したのは65歳だったということを思い出して下さいね。
決断しないこと自体が最悪の選択
イスラエルの心理学者、メラマードによれば、優柔不断な人ほど、不安を抱えやすい傾向があるそうです。
実際、迷えば迷うほど、大切な時間は過ぎ去っていきます。
精神科医であるシュピッツバートによれば、
大事なのは「決断の結果ではなく、決断すること自体である」と述べています。
考えてみれば、迷うということは、「どの選択肢にもほぼ同じ価値がある」とあなたが判断している証拠です。
それなら、些細な差を気にして時間をかけて悩むより、さっさと決断したほうがいいということがわかると思います。
それに、早く決断すればするほど、行動するための時間が生まれます。
たとえものすごくいい選択肢を選ぶことができたとしても、そのときにあなたがおじいさん・おばあさんになっていたら、意味がないのではないでしょうか。
またシュピッツバードは
「君がどんなに選択から逃げているつもりでも、実はそれは『選択を先延ばしにする』という、最悪の選択をしているに過ぎない。」とも述べています。
結局人は、選択から完全に逃れることなど不可能なのです。
ですから、
何かの決断で迷ったら、とにかく「結果」よりも「今決断することが大切」と考えること。
もしどうしても決断できないなら、コインやサイコロなどで決めてしまうほうが遥かに健全です。
さあ、今すぐ決断のサイコロを振ってみましょう!!
最愛の妻を亡くしたおじいさんへのフランクルの答え
人は誰しも、ときには、絶望にかられるときだってあることでしょう。
ましてや、強制収容所に収容された大半のユダヤ人はそれ以上に絶望の日々に明け暮れたことでしょう。
「ナチスの強制収容所に入れられ、いつガス室に送られるのか」という日々...
そんな日々に、どうやって幸せを見いだせというのか?
そんな過酷な日々を生き抜いたヴィクトール・フランクルの言葉には重みがあります。
そんなフランクルのエピソードの一つです。
ある日フランクルのもとに、年老いた患者が来ました。
彼は長年連れ添って愛した妻を亡くし、悲しみに明け暮れる日々を送っていました。
フランクル:「もし、奥様でなくあなたのほうが先に亡くなっていたとしたら奥様はどう感じていましたか?」
おじいさん:「おそらく妻はたいへん悲しんだと思います。」
フランクル:「であれば…あなたのおかげで奥様はその悲しみを逃れることが出来たんですよね?…だから…その苦しみには大いに意味があるんです。あなたは奥様を守る為に苦しみを受けているんですよ」
おそらく辛いこと苦しいことの経験はわざわざ出会いたくはないでしょうし、避けられるものなら避けたいものなのかもしれません。
でも忘れないでほしいのです。
貴方が前を向いて歩いてさえいれば、どんな辛いことでも意味はありますし、生まれることを!
エリートの落とし穴 子供の教育で追い詰める陥るパターン
親であったら、子供には素晴らしい人生を歩ませてあげたいと多くの親が考えることでしょう。
しかし子供に良かれと考え行った「教育」が子供の人生を狂わせることがままあります。
なぜ教育熱心な親が、子供を追いつめてしまうのでしょうか?
まず下記の①、②、③の例を見て欲しいと思います。
①ありがちなのは、親自身に学業に対するコンプレックスがあるケース。
自分には学歴がなくて苦労したという親は、子供になんとしても学歴を授けようとする。
②例えば、一見高学歴であっても、実は東京大学や医学部等に行けずに早慶や医以外の学部に行ったなどという場合に、成功体験と屈辱体験の融合が、わが子への歪んだ期待と感情となるケースです。
「子供には成功してほしい」という顕在的な願いの一方で、「子供にも屈辱経験を味あわせなければならない」という潜在的な欲求が混在し心に渦巻くのです。
だから、自分の成功体験に基づいて子供を激しくしつける一方で、子供の努力や成長を認めてやることができず、「お前はまだまだダメだ」というメッセージを発し続けがちになります。
③医学部や東大、ハーバード大等スーパーエリートの親が子供に過度な勉強を強いて、子供をつぶしてしまう悲劇もあります。
個人的には、①はよく見受けられるし、対策もそこらじゅうに書いてあるから案外端正は容易に思われます。
②に関しても、理解出来る方も多いのではないでしょうか。
「1番以外は全てダメ」という人はけっこう見受けられますが、そんなタイプでしょうか。
しかし盲点は、一見エリートに見え、周りからは成功者の親に見受けられるや③の場合です。
どうしてこんなことになってしまうのでしょう?
人は、最短ルートから外れることを過度に恐れる傾向があります。
そして、人は誰しも、自分の人生しか知り得ません。
常に最短距離を選んで歩いてきた人は、あえて回り道をしたり、道草などしないで育ちがちになります。
故にたった一度でも回り道をしてしまったら、大きな挫折と捉え、多大な精神的ダメージを負ってしまうのです。
たいていの場合は、早い時期にどこかで回り道を余儀なくされ、その脇道で思わぬ出来事に恵まれたりを繰り返したりして、最短ルートを行くだけが親の価値観だけが人生じゃないと学んでいくものです。
そして、そこからの人生の視野が広がったりしていくものなのです。
しかし幸か不幸か常に最短ルートを進むことが出来てしまった人は、その道しかわかりませんし、脇道に出たこともありません。
それで賞賛され続けていくわけですから、それが唯一の最も良い道だと信じて疑う機会がほとんどないことが予想されます。
故にその道以外は見えなくなり、視野が狭くなりがちになってしまうのです。
ですので最短ルートから外れることを過度に恐れるようになってしまうのです。
そうなると、子供ができれば、子供にも最短ルートを歩ませなければいけないと思い込んでしまう。
そうすることが子供のためであると信じて疑うことは少ないでしょう。
そのように育てられた子供が、一生思い通りの最短ルートを歩めれば、問題はないのでしょう。
しかし全ての人が、ビルゲイツのようになれたり、金メダルやノーベル賞をとれるわけではないわけです。
ですから、大方の子供がいつかそのルートから外れてしまう時が来るわけです。
そうなったときに、最短ルートしかわからない場合は、どうしたら良いかわからない。
対応が出来なくなってしまう可能性が高くなってしまうのです。
これが、③のケースの高学歴者やエリートの親が陥りやすい落とし穴なのです。